2018年 09月 13日
なぜ僕は『ニュー・シネマ・パラダイス』のディレクターズ・カット版を好むのか |
映画ファンとしての僕は、考えようによってはちょっと邪道な映画の見方をしているかもしれない。
というのも、「ディレクターズ・カット版」や「完全版」が存在する過去の映画については、劇場公開版をすっとばしてそちらを観てしまうことが多いからだ。だから世の中の評価とはちょっと違った感想を持ってしまうことも多いと感じている。
『ニュー・シネマ・パラダイス』(Nuovo Cinema Paradiso, 1988伊, dir: Giuseppe Tornatore)もそうだったし、『ブレードランナー』(Blade Runner, 1982米, dir: Ridley Scott)もそうだった。
『ニュー・シネマ・パラダイス』については、僕が目にした多くの“映画評論”では、とにかく「ディレクターズ・カット版は蛇足だ」という意見が大半を占めていた記憶がある。「劇場公開版で十分だ」ということらしい。
ところが最初にディレクターズ版のほうを観た僕なんかからすると、劇場公開版ではあまりに物足りなく感じてしまう。そういう経緯もあって、この映画を人に薦めるときには、必ずディレクターズ・カット版を最初に観るべきだと言い添えていた(もちろん相手は選んでのことだけど)。
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両方を観たことがある人なら知ってのとおり、劇場版ではディレクターズ版で描かれている後半の展開がごっそり削除されている。それによって筋が明快になり、話の構造は単純化され、映画としてきれいにまとまっている。
それに対してディレクターズ・カット版では、アルフレードというキャラクターによるある(見ようによっては残酷な)行為を描くことで物語が複雑化し、全体としては冗長な印象になっているともいえなくない。それがディレクターズ版が嫌われている理由なのだろうと思う。
しかし、僕の意見を述べさせてもらえば、劇場版ではアルフレードという人物のある行為がまるまるカットされてしまったことによって、彼は言ってしまえばたんなる“いい人”になっている。劇場版のアルフレードは、主人公の幼少期から思春期を彩る単純で好ましいだけの背景の一部のような存在なのだ。
対するディレクターズ・カット版では、とくに劇場の火事によって視力を失ってからの彼は、得体のしれない哲学と人生観を持った人物として描写されている。劇場版ではただの(おそらくは偶然の)成り行きにすぎなかったある思春期の出来事が、ディレクターズ・カット版ではアルフレードの意図的な行為の結果であったことが明かされる。
アルフレードによる行為とその意図が明らかになることで、観る人はみなもやもやとした気持ちにさせられるつくりになっている。
ディレクターズ・カット版が物語るのは、ある思春期の喪失感が、結果としてひとりの芸術家を生み出したのだというはっきりとした顛末だ。
その芸術家は、中年になったいまも、変わらず同じ喪失感に苛まれ続けている。そういう文脈で観ると、あの有名なラスト・シーンまでも、劇場版とはまったく違う意味合いを帯びてくると思う。
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ちなみに僕自身はジュゼッペ・トルナトーレという監督のフィルモグラフィをすべて網羅しているわけではないのだけれども、『海の上のピアニスト』にしても『マレーナ』にしても、『みんな元気』にしても、どれも観終わったあとにもやもやとする映画だろうと思う。
だから、劇場版とディレクターズ版のどちらがよりトルナトーレらしいかと考えてみると、まあ後者じゃないかなと思う。そういう意味での作家性というのは、劇場公開版のほうではだいぶ薄まっている印象だ。
いずれにしても、二つのヴァージョンのどちらがいいかは、観る人の好みによってはっきり異なるということを、ディレクターズ・カット版の評価の低さは示していると思う。
老人と少年の心温まる交流を描いた気持ちのいい映画を好む人は劇場版を観ればいいし、人生と芸術と身を焦がすような恋愛の喪失についての物語を味わいたい人はディレクターズ・カットを観ればいい。そういうことじゃないだろうか。
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余談だが、少し前にどこかで、「人を長く激しく苦しめるのは、強く求めていたのに手に入らなかったものだけだ」というような趣旨の文章を目にした。
そういう類いの強い欠落感について、より明示的に描いていると思えるからこそ、僕はディレクターズ・カット版のほうを好んでいるのだろうと思う。
by tanzeallein
| 2018-09-13 21:05
| 映画
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